責任というと重くとらえがちだけど、そんなものではありません。
日本でいう責任は日本独特のモノで、
責任とらずば人にあらず
と責任が必要以上に重いものになっています。
これは心の生活習慣病がつくりだしたもので、自分らしくゆるふわに心地よい人生のためには責任を軽くとらえたほうが良いです。
すりこみによって作られた責任
子どもってアンパ○マン好きですよね。
僕は子どもがいないし、子どものころはやっていなかったので、あのアンパンの偉大さはよくわかりません。
ただ、あのアンパンを知らない人のほうが少ないし、アンパンをキライな子どもをまだ見たことありません。
ただ、アンパンマンって変な思いこみをつくるわけです。
それが責任です。重いほうの。
子どものころから見ているアンパンマンを悪くいうやつはアタオカという空気の社会で、そんなことを言おうものなら、もれなくアタオカあつかいを受けます。
で、やなせたかしさんは誰かをあやつろうとか、DSの手先とかいうわけじゃなく、純粋におもしろい作品をつくろうと思っているだけなはずです。
で、それを見た子どもたちも純粋にあの作品を見て楽しんでいるわけで、それがおろかな行為でもないし、アンパンマンから学んだ良いこともあるはずです。
ただ、それが自分の人生に制限をかけている可能性はあるわけです。
それが勘違いした重い責任です。
アンパンマンって、ただのアンパンなのに、ジャムおじさんによってバイキンと戦うハメになりました。
イヤ。自分アンパンなんで、バイキンと戦う必要ないと思うんス。バイキンやっつけるんなら殺菌剤とかで良くないすか? 自分アンパンっすよ?
という権利も選択肢もあるのに、彼はバイキンと戦い、自分の身をけずって誰かを助けることを選びました。
そんなストーリーを何回も見ることで、
「特別な能力をもったモノは、大きな責任をもつ必要がある」
と思いこむわけです。
ただ、責任って、自分がどうしたいか反応するだけです。
日本では責任はとらなきゃいけないもので、責任をとらない人間は人にあらず。
責任の反対にあるのは無責任、無責任とは大人としてはずかしい行為と思われています。
妻も子どももいなければ、モノも必要最低限しか持たない買わない、なので借金もローンもなく、払う税金もわずか。
「税金(はらってくれている人)アジャース!」な生活をしている僕なんて世間からすれば無責任を絵に描いた存在です。
社会の片隅でピラミッドのなかで働いている人たちを、
大変そうだなぁ
と見ているだけです。
で、そんなピラミッドから出たそうな人に、こうしてメッセージを送っているだけです。
そんな責任、ユーがやめちゃいなよ。やめちゃえばいいじゃん。やめて困るのはユーじゃないんだぜ!
と。
アンパンマンだけじゃなく、特別な能力をもったモノは大きな責任がついてくると思いこむよう、あの手この手ですりこまれるわけです。
働くには必要な責任
んじゃあ、なんでそんなすりこみをする必要があるのでしょう?
お金です。
お金を効率よく稼ぐためです。
それはアナタじゃなく、お金というモノに価値がある人を教育してラクをしたい人が、効率よく稼ぐためにすりこまれるわけです。
大人になったら税金をはらわなきゃいけない
税金をはらうにはお金を稼がないといけない
お金を稼ぐには働かなきゃいけない
稼いだお金で車や家を買わないといけない
ローンを組む必要がある
いずれは結婚しないといけない
結婚したら家族を養わないといけない
もっとお金が必要になる
子どもをつくらないといけない
老後は不安がいっぱい
そのためにお金を稼がないといけない
自分がなにをやりたいか考える前に、お金を稼がなきゃいけないと思いこまされるわけです。
で、働いていると自分がなにしたいか考えなくなり、ただお金のために働きます。
なんのためにお金を稼がなきゃいけないか
そんなことを考えないよう、ローンという借金で人生を労働でしばられます。そのために責任は重いもので、背負わなければいけないもの。
だって、アンパンマンもそうだったんだから。
これが普通で当たり前。
米や芋、味噌やら自分で食べモノつくって、お金やエネルギーを必要最低限で生きる。それだけで十分でしょ?
そんなのは妄想だし、そんな生活は、とっても貧乏な無責任な生活。
スーツをビシッと着こなして、電車にゆられて仕事にいき、マイホームをもつ。
週末は車で家族と一緒にMのついた店のなんちゃらバーガーやら、Sのついた店のなんちゃらフラペチーノを食べたり飲む。
行列にならんで、順番待ちをして生きるのは当たり前なんだ。
うたがっちゃいけない、それが当たり前なんだ、普通なんだ。
重い責任は大人として当たり前なんだ。
そう思いこむわけです。
原因は二元論というすりこみ
そんな思いこみは責任の反対にあるのが無責任と思いこんでいるのが原因です。
これは二元論というすりこみです。
AかBしかない
と無条件で思いこむ状態です。本来なら魂の発達段階で子どものころに抜けます。
ですが、すりこみの道具によって大人といわれる年齢になっても、二元論的な考えをしてしまうわけです。
頭が良いとか悪いとかじゃなく、悪いのはすりこみの道具です。
すりこみの道具を捨てないと取れない思いこみです。
ただ、そのすりこみの道具を持つことも責任のなかにはいっているので、捨てるなんて考えないわけです。
ホントの責任って?
自分はどうするか反応するだけなのがホントの責任です。
責任のとらえ方は人それぞれですが、もし自分らしく心地よく生きたいと願っているなら、責任を軽くしてもいいわけです。
ここまでは自分の責任
ここからは自分の責任じゃない
だれの責任かなんて、わかる必要もない
くらいに思い、自分の責任の範囲を決めることです。
NOを言ってもいいわけです。逆にできもしないのにYesというほうが無責任だったりします。
オマエできるって言ったじゃん?
どうすんだよコレ
責任をとるのが、責任を背負うのが大人と勘違いしてたころ、僕はとりあえずできると言ってから、どうすればできるか考えてました。
結果として、どうしようもない状況になったこともありました。
ホントにどうしようもない状況になりました。
みんなで冷や汗をかいたのは苦く、良い思い出です。
いまの日本ではNoを言うことは無責任で、無責任は悪いコトと思われ、そこから抜けるのは大変です。
ただ、
できないことはできない
ワタシがやらなきゃ誰かやる
できないことはできる人がやればいい
できる人は必要なときにあらわれる
それくらいにみんなが思って、無責任な生き方をする人を増やすことって、みんながより良い人生をすごすために大事じゃないかと思っています。
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